いまが旬の「オペラ界のレジェンド」
みずみずしいのに深いシラグーザを聴き逃す手はない!
アントニーノ・シラグーザが単に「すぐれた歌手」だったのは、いまは昔 のこと。もはやテノールの偉大なる例外であり、「オペラ界のレジェンド」 とでも呼ぶほかない。 シラグーザの歌には天与の長所があり、部類の歌心と相まって、耳の肥 えたオペラファンたちを唸らせてきた。故郷シチリアの青い空や海を思わ せる明るい美声と輝かしい高音。聴き手を身震いさせるほど美しいピアニ ッシモ。変幻自在の超絶技巧。 それらが喚起させるイメージは、若々しいエネルギーである。そういう特 徴をもつテノールの多くは、キャリアを重ねるにつれ声が重さを増し、よく いえば成熟した声で、ドラマティックな歌を歌うようになる。ただし、少し ネガティブに表現すれば、若々しさやみずみずしさが失われていく。高音も 出にくくなり、声を敏捷に動かすことも叶わなくなる。 ところが、シラグーザは変わらない。不思議なほど、もっといえば、恐ろしいほど変わらない。変わらないどころか、若返ってさえいる。 すでに50代半ばである。しかし、2018年秋のリサイタルでも、 2019 年 6 月のボローニャ歌劇場日本公演の《セビーリャの理髪師》でも そうだったが、第一声から澄んだ空のようであり、青春の息吹のようでもあ った。そして、高い C や D の音までストレスなく駆け上り、アジリタなどの 超絶技巧を高い音楽性を伴って、いとも簡単にこなしてしまう。
シラグーザは、ロッシーニの聖地である伊ペーザロのアカデミーで学んだ。難度が高いロッシーニのオペラは、とりわけ非日常的な声域を使うテノールにとっては、一般には長く歌い続けるのが困難だが、シラグーザにかぎっては、いまも当たり前のようにロッシーニを歌っている。し かも、若いころより声が輝きを増し、高音は楽になり、表現は自在になっている。2019 年 8 月もペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴ ァルで《セミラーミデ》のイドレーノという、技巧的な至難のアリアを2曲歌う役を完璧にこなし、圧倒的な賞賛を勝ちとった。
キャリアを重ねれば表現力は増すし、音楽性も練れてくる。しかし、歌手にとっての楽器である肉体は、深い表現が可能になるのに反比例して衰えていく。ところが、シラグーザの声はいまのところ衰えを知らない。むしろ、いま旬を迎えているとさえ言える。この奇跡は彼の声に備 わる例外的な力と、彼の完璧なテクニックの賜物だろう。いずれにせよ、こうして誕生した「オペラ界のレジェンド」の、みずみずしく輝かしいのに成熟していて深い、という奇跡のような歌を、聴き逃すという手はない。
香 原 斗 志( オ ペ ラ 評 論 家 )